捨て切れないのは

モクジ
騒々しい音がして扉が閉まった。
ゆるやかに発進していく地下鉄に乗り込んでぼうっと周りを眺める。一日も終わりを迎えようとしているそんな時間のここは、疲れと眠気が入り混じったような空間だった。
開いている座席に腰を掛けて、ポケットから携帯電話を取り出す。シンプルな黒のそれは、ずいぶんと使い込まれていてアーサーの手にしっくりと馴染んだ。
(新着メールも着信もない、か。)
微かな期待を込めて、携帯電話を覗き込んだが待ち受け画面は数時間前から変化した様子はなかった。

ぱたん、ぱたんと携帯を開けたり閉めたりを繰り返す。二つ折りのそれは開け閉めをするたびにぱたんと小さな音をたてるのだが、地下鉄の喧噪のなかではあまりうまく聞き取れない。

ぱたん。
もう一度開く。
待ち受けに変化はない。

ぱたん。
閉じてみる。
静かだ。

ぱたん。
やはり、なにも変わっていない。

不毛な繰り返しに飽きを感じてきて、なんとなくアドレス帳を開く。
AからZのアルファベット順に仕分けされてアドレスが保管されているそこは、この携帯の中でも特に活用されていない場所だ。アーサーが連絡をとる相手など一部だし、そういう相手はいちいちアドレス帳から呼び出すこともしない。つまり、ここはほとんど使われないアドレスの倉庫というわけだ。使わないアドレスをなぜ登録したままでいるのかといえば、いつか使うかもしれないときの為としか言いようがない。……なんだか、物を捨て切れないやつの言い分みたいになっている気がするが本当にそうだからしかたない。いざ必要な時になって、アドレスがないと不便なことになってしまうのは経験済みだ。だから、アドレスは消すことはない。

(それに、アドレスが消えるのはいやだ。……まるで、絆が消えてしまうようで。)
アドレスが消えた程度で関係が終了してしまうことなどありえないのだが、それでも目に見える形で相手との関係がデリートされるのはあまり嬉しくない。

それでも衝動的にアドレスを消してしまいたくなる時がある。それが、今だった。
(どうせ、連絡がこないのならアドレスは必要ないんじゃないか?
……いや、でも消したら困ることもあるかもしれない。ってあいつから連絡こなくても困ることなんてねえよ!
でも、こっちから連絡できないのは困ることも、ある、かも・・・・・・しれないよな?)
あいつ専用のフォルダ、着信音、二人だけの顔文字。 この携帯にはたくさんあいつのためのものがつまっている。それを初めからなかったかのように、消去できるか? (だめだ。 ……やっぱり、消せない。)

ぱたん、と携帯電話閉じて両手で握りこむ。
まるで祈るかのように、強く眼を閉じた。

(はやく、こいよ。

これ以上、消したくなる前に。)


Fのアドレス帳を開いたままの携帯が、静かに震えた。


モクジ

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