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 振り返ると、そこには何もなかった。誰かに呼ばれたような気がしたのだが。空耳だったのだろうか、それにしてはやけに鮮明だった。寂しく縋るようなあの声は、忘れる筈のないいつかの弟の変声期の前のものだった。
 やたら今日は感傷的になってしまう。過去には拘らない方だとは思うのだが、如何せん存在上過去は記録され残されてしまう。俺達と言う存在は現在も過去も未来もでさえ、たった一人のものとして抱きしめることが出来ず、何かしら人に伝えられていくものなのだ。けれど、それが時々無償に嫌になる時もある。だからと言って国であることを辞めてしまうことを今更考えることもなかった。長い長い時間を経て、ある部分で当たり前になってしまったのだとおもう。俺でこうなのだから仙人だとか呼ばれている奴はもう感覚が麻痺してしまっているに違いない。
「イギリスさん?」
 声が聞こえたことにはっとする。前方に見える世界は緑色をしていた。日本の山並みである。
 聞いていましたか、と日本が問う。「ああ」曖昧な返事をして、だがすぐに吸い尽くされそうなこの黒色の瞳に嘘は通じないと悟る。
「いや、すまない。聞いていなかった」
 ふふ。笑うこえ。日本はあまり怒らない。常に謙虚な姿勢であるのが日本の美徳らしい。独特で、また素晴らしいことだとは思うがしかし、時々不安になることもやはりあるのだ。笑顔の裏にある本心だとか。遠まわしすぎる言語表現だとか。

 ――――君を、もう兄と呼ぶことはないよ。

 あれぐらい率直すぎても傷つくが。だがこうやって焦らされるのならばいっそ言ってもらった方が、今こうして悩むこともないのだから楽なのかも知れない。勿論傷つきはするのだが。

 日本とはもうなんだかんだで同盟を結んで100年経った。
 けれど付き合うようになってからは、まだ1年しか経っていない。
 未だこの気高くうつくしいものに、俺は距離を測っていた。
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